サン=サーンス:交響曲第3番 ハ短調 作品78「オルガン付き」

サン=サーンス:交響曲第3番 ハ短調 作品78「オルガン付き」



Orchestre de Paris Paavo Järvi, conductor Live recording. London, Proms 2013

交響曲第3番ハ短調作品78オルガン付き」(Symphonie n° 3 ut mineur op.78, avec orgue)は、1886年カミーユ・サン=サーンスが作曲した交響曲。サン=サーンスの番号つきの交響曲としては3番目、番号なしを含めれば(2曲の未完成作品を除く)5番目の交響曲である。演奏時間は約35分(各楽章20分、15分)。

この作品の作曲についてサン=サーンスは「この曲には私が注ぎ込める全てを注ぎ込んだ」と述べ、彼自身の名人芸的なピアノの楽句や、華麗な管弦楽書法、教会のパイプオルガンの響きが盛り込まれている。初演や、翌1887年1月9日パリ音楽院演奏協会によるパリ初演はどちらも成功を収め、サン=サーンスは「フランスのベートーヴェン」と称えられた。

この交響曲の最も顕著で独創的な特徴は、各所に織り込まれた、ピアノ(2手もしくは4手)およびオルガン、すなわち鍵盤楽器の巧妙な用法である。そのほか、この交響曲は通常の4楽章構造にしたがっているように見えるが、通常の意味での第1と第2、第3と第4の楽章はそれぞれ結合されており、2つの楽章に圧縮されていると言うことができる。サン=サーンスはここで、伝統的なスタイルも踏まえつつ、新たな形の交響曲を意図していたのである。1875年ピアノ協奏曲第4番や前年に初演されたヴァイオリンソナタ第1番でも同様の構成が採られている。

この交響曲はまた、循環主題技法の創造的な用法を示している。サン=サーンスはフランツ・リストと友人であり、初演直後に亡くなったリストにこの交響曲を献呈しているが、素材が楽曲全体を通じて進化してゆくというリストの主題変容の理論がこの交響曲には適用されている。



カミーユ・サン=サーンス



内務省に勤める官吏の家庭に生まれる[注 1]が、生後数ヶ月で父親は亡くなり、母親と大叔母に育てられる。モーツァルトと並び称される神童で[7]、2歳でピアノを弾き、3歳で作曲をしたと言われている[8]。また、10歳でバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンたちの作品の演奏会を開き[9]、16歳で最初の交響曲を書きあげている。1848年に13歳でパリ音楽院に入学して[10]作曲とオルガンを学ぶ[注 2]。特にオルガンの即興演奏に素晴らしい腕を見せ、1857年から1877年にかけ、当時のパリのオルガニストの最高峰といわれた[12]マドレーヌ教会のオルガニストを務める。

1861年から65年にかけてニデルメイエール音楽学校(École Niedermeyer)で生涯唯一の教職に就き、フォーレアンドレ・メサジェウジェーヌ・ジグーなどを教える[13]。特にフォーレとは終生の友人となった。普仏戦争終了後の1871年にはフランク、フォーレらとともに国民音楽協会を設立し、フランス音楽の振興に努めた[13][注 3]

サン=サーンスは作曲家、ピアニスト、オルガニスト、指揮者として国際的に活躍したが、パリでは長い間その作品に反対する意見が多かった[15]。その状況がはっきりと変わるのは、1881年にアカデミー会員に選出され、1883年オペラヘンリー八世」初演が大成功を収めるころのことだった[16]。57歳の1892年にはケンブリッジ大学から名誉博士号を贈られ[17]、1901年にはヴィルヘルム2世からプール・ル・メリット勲章を授与された[18]。1913年、78歳のサン=サーンスは、レジオン・ドヌール勲章の最高位であるグラン・クロワを贈呈されている。1921年、アルジェリア旅行中に86歳の生涯を閉じ、葬儀は、その多大な功績に相応しく国葬で執り行われた[18]

作風[編集]

「モーツァルトとハイドンの精神で」育った[19]サン=サーンスは、バッハベートーヴェンの作品にも精通し、若い時期にはメンデルスゾーンシューマンに影響を受けている[18]。同時に彼の音楽は「本質的にフランス的なもの(...)を表現している」とされ[7]ノルベール・デュフルク英語版はサン=サーンスの美学を「厳密な設計、明晰な構築、論理的な展開、節約された線的・和声的手段」と表現し[20]ロマン・ロランはサン=サーンスを「古典的フランス精神のただ一人の代表者」と評している[21]。こうした美学は生涯を通して大きく変わることはなかった[22][注 4]

サン=サーンスは、映画『ギーズ公の暗殺』のため1908年というきわめて早い時期にオリジナルの映画音楽を作曲した[注 5]ことに象徴されるように、幅広い分野に多くの作品を残している。なかでも重要なのは、当時のフランスでは新作が冷遇されていた[27]交響曲室内楽曲協奏曲といった分野である[18]。国民音楽協会の開設とあわせ[28]、これらの作品によって彼はフランス音楽史へ大きな足跡を残した[29]

前半生では、当時先進的とされたシューマンやリストの作品を積極的に擁護し[11]、「現代音楽家」、革命家とみなされていた[30]。「形式の最大限の可変性」を求めて[31]リストの確立した交響詩の形式をフランスにいち早く持ちこんだ一人であり[32]、協奏曲においては形式面や、独奏と管弦楽との関係において多くの実験を行い[33]、フランスにおけるこのジャンルに重要な貢献をもたらした[34]。またワーグナーを早くから擁護する一人でもあったが、のちにフランスに広がったワグネリズムには否定的な立場をとるようになった[注 6]

他にはバロック音楽にも通じ、リュリシャルパンティエラモーらの作品の校訂に携わり[37]クラヴサンの復興にも関わった[38]。複数の「組曲」や七重奏曲 Op. 65などの作品では、バロック期の舞曲形式へのいち早い興味を示している[32]

交響曲第3番「オルガン付」やオペラ「サムソンとデリラ」など「もっとも独創的で最良の作品のうちいくつか」が作曲された1870-80年代[39]を経て、晩年には第一次世界大戦を経験して死の直前にいたるまで、すでに保守的とみなされるようになった作風による創作を続けた[40]。公的には依然として栄光を受けていたものの若い世代からは「形式主義的」で「絶望的に古臭い」と攻撃され[41]、彼の影響を認める作曲家はラヴェルなどわずかだった[42]1910年にサン=サーンスは、「私は最初の頃は革命家と言われた。しかし私の年齢になるとただ先祖でしかあり得ない」と書簡に記している[19]。ただし、晩年の作品ではピアノの書法が線的で軽くなるとともに木管楽器への偏重、遠隔的な和音進行や旋法終止の増加といった特徴がみられ、第一次世界大戦以降の世代の作曲家の美学(新古典主義音楽)と共通する点があると指摘されている[43][42]

「彼の偉大な名声も、またそれに続く軽視も、共に誇張されすぎてきた」と評される[7]ように、サン=サーンスの音楽はしばしば不公平な評価を受けてきた[43]が、1980年代ごろからふたたび彼への関心が高まり、再認識が進んでいる[28]





サムソンとデリラよりバッカナール






コメント

このブログの人気の投稿

フランツ・シュミット/交響曲 第4番

エルガー 交響曲第1番

メンデルスゾーン交響曲第2番 ☆☆☆☆