投稿

ニールセン 交響曲第4番「不滅」

イメージ
  ニールセン 交響曲第4番「不滅」 ニールセン - 交響曲 第4番 Op.29《不滅》 カラヤン ベルリンフィル 交響曲第4番  作品29, FS 76  は、 カール・ニールセン が 1914年 から 1916年 にかけ作曲した交響曲である。作曲者自身によって『 不滅 』(または 滅ぼし得ざるもの 、 デンマーク語 :  Det Uudslukkelige 、 英語 : The Inextinguishable )という副題が与えられている。 4つの楽章の要素が移行していくという構成になっており、しばしば4楽章や2楽章の曲と誤解されるが、単一楽章の作品であり、2群の ティンパニ による競演を特徴とし、ニールセンが手がけた交響曲の中でも特に劇的な作品と目されている。 カール・ニールセン (または ニルセン 、 ニルスン [1] 、  Carl August Nielsen   デンマーク語発音:  [kʰɑːl ˈnelsn̩] ,  1865年 6月9日  -  1931年 10月3日 )は、 デンマーク の 作曲家 。デンマークでは最も有名な作曲家であり、同国を代表するにとどまらず北欧の重要な作曲家として知られている。

ヴォーン=ウィリアムズ/田園交響曲(第3番)☆☆

イメージ
 ヴォーン=ウィリアムズ/田園交響曲(第3番) Vaughan Williams: A Pastoral Symphony (Sym. #3), Norrington LPO ヴォーン・ウィリアムズ 田園交響曲 ノリントン指揮 ロンドン・フィル 田園交響曲 (でんえんこうきょうきょく  英語 : A Pastoral Symphony  )は、 イギリス の 作曲家 レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ が 作曲 した3番目の 交響曲 。 1918年 から 1921年 にかけて作曲され、のちに 交響曲第3番 の番号も与えられた。全4 楽章 よりなる。 概要 [ 編集 ] ヴォーン・ウィリアムズが 第一次世界大戦 に従軍していたとき、 ラッパ 吹きが オクターブ の音程を間違えて7度音程で吹いていたところから発想を得たという。このイメージは第2楽章の ナチュラルトランペット の独奏へと受け継がれた。全部の 楽章 が モデラート あるいは レント からなっていて、ほんの一部を除いて曲中にテンポの速い箇所がない。 五音音階 に近い 旋法 や 印象派 の影響が強い和声など、ヴォーン・ウィリアムズの交響曲の中では親しみやすい部類に入るが、友人 バターワース を含む第一次世界大戦の犠牲者への 挽歌 であると考えられている。 レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ ( Ralph Vaughan Williams  OM ,  1872年 10月12日 - 1958年 8月26日 ) は、 イギリス の 作曲家 。Vaughan Williams が姓であり、 RVW  または VW と略される。Ralph は通常「ラルフ」と読むが、本人が古風な発音の「レイフ」にこだわったという経緯から「レイフ」が用いられる。民謡の採集や 教会音楽 の研究を通して独特の作風を確立し、イギリス人による音楽の復興の礎を築いた。

モーツァルト:交響曲第35番 「ハフナー」☆☆☆☆☆

イメージ
 モーツァルト:交響曲第35番 「ハフナー」 W. A. Mozart - Symphony n. 35 KV385 "Haffner" (Sir A. Pappano) モーツァルト:交響曲第35番 「ハフナー」 ニ長調   K. 385  は、 1782年 にハフナー家のために作曲された セレナード であり、同時期に 交響曲 へと編曲された楽曲である。旧全集では『交響曲第35番』の通し番号が与えられており、 交響曲第35番 ニ長調 K. 385「ハフナー」 として知られている。 「モーツァルトの6大交響曲」と呼ばれ、モーツァルト交響曲のなかでも特に人気が高い。 モーツァルトがハフナー家のために作曲した楽曲は2つあり、ともにセレナードである。1曲目は 1776年 作曲された セレナード第7番 K.250(K 6 .248b)で、こんにち『ハフナー・セレナード』と呼ばれ親しまれている。2曲目のセレナードはその6年後の 1782年 7月末に作曲された。ハフナー家が貴族になったことへの祝賀用のセレナードであったが、オリジナル・フォームのセレナードは メヌエット 1曲が散逸している。行進曲(K 6 . 385a)は2曲目のセレナードのための行進曲であるとされている。

エルガー 交響曲第1番

イメージ
 エルガー 交響曲第1番 エルガー: 交響曲 第1番 変イ長調 Op.55 ショルティ 1972 交響曲第1番 変イ長調   作品55 は、 エドワード・エルガー が 1907年 から 1908年 にかけて作曲した 交響曲 。曲は、初演を指揮した ハンス・リヒター に献呈された。 4楽章よりなる。曲頭に現れる 旋律 が 循環主題 として用いられており、全曲にわたって登場する。これ以外にも第1楽章の第1主題からいくつもの動機が派生していて、全体的に緊密な構成がとられている。またこの曲は 変イ長調 となっているが、実際に変イ長調であるのは第1楽章の序奏と終結部、第4楽章の終結部のみであり、その他の部分は第1楽章主部が ニ短調 、第2楽章が 嬰ヘ短調 、第3楽章が ニ長調 、第4楽章の序奏と主部がニ短調と、全体的にニ短調交響曲としての性格が強い。演奏時間約55分。 エドワード・エルガー 初代 準男爵 サー・エドワード・ウィリアム・エルガー (Sir Edward William Elgar, 1st Baronet,  OM ,  GCVO 、 1857年 6月2日  -  1934年 2月23日 )は、 イングランド の 作曲家 、 指揮者 。もとは音楽教師であり ヴァイオリニスト でもあった。 エルガーが遺した楽曲の多くは母国 イギリス のみならず、世界中の演奏会で取り上げられている。中でも最もよく知られるのは『 エニグマ変奏曲 』や 行進曲 『 威風堂々 』、 ヴァイオリン協奏曲 、 チェロ協奏曲 、2曲の交響曲などである。また、『 ゲロンティアスの夢 』をはじめとする合唱作品、室内楽曲や歌曲も作曲した。 1904年 (47歳)に ナイト 、 1931年 (74歳) 准男爵 に叙されている。 1924年 からは 国王の音楽師範 を務めた エルガー: 行進曲「威風堂々」Op.39 ショルティ1976

メンデルスゾーン交響曲第2番 ☆☆☆☆

イメージ
 メンデルスゾーン交響曲第2番 Mendelssohn: 2e symfonie, 'Lobgesang' - Live Concert HD フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ の 交響曲第2番 『 讃歌 』(こうきょうきょくだい2ばん さんか) 変ロ長調作品52、MWV A 18 ( ドイツ語 :  Sinfonie Nr. 2 in B-Dur op. 52 MWV A 18 "Lobgesang" )は、メンデルスゾーンが 1840年 に作曲した 独唱 と 合唱 を伴う 交響曲 。 歌詞 は ドイツ語 で、 マルティン・ルター が 1534年 に完成させた 旧約聖書 のドイツ語版の文言を、メンデルスゾーンが順序も含め改定したもので、神への賛美を歌い上げている。( 歌詞 参照) 1840年 6月、 ライプツィヒ で開催された ヨハネス・グーテンベルク の 印刷技術 完成400周年記念祝典に際し、メンデルスゾーンがライプツィヒ市から委嘱されて作曲した2作品の内の一つがこの交響曲で、同年 6月25日 に作曲者自身の指揮でライプツィヒの 聖トーマス教会 で初演された。その後、楽譜を一部改定し、同年 12月3日 に作曲者自身の指揮でライプツィヒの ゲヴァントハウス で演奏された。よって現在、初演版(première version)と、改訂版(revised version)の2つの版がある。( 主要録音 参照) 作曲順ではメンデルスゾーンの 交響曲全5曲 で4番目であるが [1] 、出版順では2番目であるため第2番と表記される。 ベートーヴェン の 交響曲第9番 を彷彿とさせる独唱と合唱の付いたこの交響曲は、初演当初人気を博したが、それ以降は注目を集めることも少なくなった。しかし、 1958年 、 ライプツィヒ に国際メンデルスゾーン協会設立後は再評価され、再び脚光を浴び知られるようになった。 作品は全2部10曲から構成される。第1部は3楽章の シンフォニア 、第2部はカンタータ楽章となっている。なお改訂版では第6曲・第8曲・第10曲が書き足されており、原典版とはテクストが異なる。

フランツ・シュミット/交響曲 第4番

イメージ
フランツ・シュミット/交響曲 第4番 Schmidt: 4. Sinfonie ∙ hr-Sinfonieorchester ∙ Paavo Järvi 交響曲第4番 ハ長調 は、 フランツ・シュミット が一人娘の追悼のために 1932年 から翌 1933年 にかけて作曲した 交響曲 である。この曲は 1934年 1月10日 に ウィーン の ウィーン楽友協会 演奏会にて ウィーン交響楽団 により初演された。 フランツ・シュミット フランツ・シュミット (Franz Schmidt、 1874年 12月22日 プレスブルク  -  1939年 2月11日 ペルヒトルツドルフ )は、 後期ロマン派 に属する オーストリア の 作曲家 。 プレスブルク(現在は スロヴァキア の首都 ブラチスラヴァ )に生まれる。 ピアノ を短期間 テオドール・レシェティツキー に学ぶが、そりが合わなかった。 1888年 に家族と共に ウィーン に転居し、 ウィーン音楽院 にて作曲を ロベルト・フックス に、 チェロ を フェルディナント・ヘルメスベルガー に師事、 1896年 に「優秀賞」を得て卒業した。ウィーン宮廷歌劇場管弦楽団にチェリストの座を射止めて(しばしば マーラー の指揮の下に)、 1914年 まで演奏した(同オーケストラに就職する際、13人のライバル候補を蹴落としたといわれる)。 1925年 にウィーン音楽アカデミー理事に、 1927年 には院長に就任。健康の悪化に伴い、 1937年 初頭にアカデミー辞職を余儀なくされ、1939年にペルヒトルツドルフで他界した。 なお、同時代のフランスの作曲家 フローラン・シュミット との区別の必要から、両者ともに氏名を省略せずにカナ書きすることが通例である。これは、名前のイニシャルと姓だけ(F.シュミット)では両者の区別がつかないことに

ヨハネス・ブラームス 交響曲第4番

イメージ
  ヨハネス・ブラームス 交響曲第4番 ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 交響曲第4番 ホ短調 作品98 ( ドイツ語 :  Sinfonie Nr. 4 in e-Moll op. 98 )は、 第3交響曲 完成の翌年 1884年 から 1885年 にかけて ヨハネス・ブラームス が作曲した最後の 交響曲 。第2楽章で フリギア旋法 を用い、終楽章には バロック 時代の 変奏曲 形式である シャコンヌ [1] を用いるなど、擬古的な手法を多用している。このことから、発表当初から晦渋さや技法が複雑すぎることなどが批判的に指摘されたが、現在では、古い様式に独創性とロマン性を盛り込んだ、円熟した作品としての評価がなされており、4曲の交響曲の中でも、ブラームスらしさという点では筆頭に挙げられる曲である。 同主長調 で明るく終わる 第1番 とは対照的に、短調で始まり短調で終わる構成となっているが、これは 弦楽四重奏曲第1番 、 第2番 や シェーンベルク が 管弦楽 に編曲している ピアノ四重奏曲第1番 など、ブラームスの室内楽曲では以前から見られる構成である。ブラームス自身は「自作で一番好きな曲」「最高傑作」と述べている。演奏時間約40分。